17年12月17日 21:06

『厄年はあるのか』

  14年1月 1日 18:47   閲覧件数 977
 世間では、四十二歳の厄年だ、三十三歳の大厄だといって心配している人が大ぜいいます。

 しかし、日蓮大聖人は、

 「三十三のやくは転じて三十三のさいはひとならせ給ふべし。七難即滅七福即生とは是なり。年はわかうなり、福はかさなり候ベし」(四条金吾殿女房御返事・新編七五七)

と、妙法の信徒にとって厄はけっして恐ろしいものではなく、むしろその時こそ若さを増し、はつらつとして福徳を積むことができるのだということを教えられています。

 厄という字は、もともとは木の節のことで、木に節があると製材や木工作業に困るところから転じて、災いや苦しみの意味に用いられるようになったといわれています。

 また厄年の年齢区分についていえば、男性の二十五歳、四十二歳、六十一歳は、昔は人間の一生の節目にあたる年祝いの行われた年齢で、青年が壮年組に入り、村人のために諸種の役を得る資格を得、また壮年より老年組に入る節目のことで、けっして忌みきらうことではなかったのです。

 また女性の十九歳、三十三歳、三十七歳は、育児や健康の上でも、ひとつの節し目にあたる時期だったようです。

 大聖人は、

 「やくと申すは譬へばさいにはかど、ますにはすみ、人にはつぎふし、方には四維の如し」(日眼女造立釈迦仏供養事・新編一三五一)

と、さいころの角・升のすみ・人体の関節・方位の四隅などのように、厄とは人生における大事な折り目のことなのだと教示されています。

 そうした時期に、単なる四十二歳は「死に」通じるから、三十三歳は「さんざん苦労する」などと語呂合わせをして思い悩むのはまったく馬鹿げたことだといわなくてはなりません。

 また、世間の迷妄に紛動されて、神社や他宗の寺で厄ばらいなどを頼む人は、大聖人が、

 「善を修すると打ち思ひて、又そばの人も善と打ち思ひてある程に、思はざる外に悪道に堕つる事の出で来候なり」(題目弥陀名號勝劣事・新編三三一)

と説かれているように、かえってよけいに災いや魔が競うのです。

 大聖人の、

 「厄の年災難を払はん秘法には法華経には過ぎず。たのもしきかな、たのもしきかな」(太田左衛門尉御返事・新編一二二四)

との教えどおり、私たちはこの厄年の節目の時こそ、邪心・邪説に惑わされることなく、正しい御本尊のもとにいっそうの信心を奮い起こして、七難即滅・七福即生の、より輝かしい人生を切り開いていくことが必要なのです。

(『正しい宗教と信仰』より転記)