17年10月20日 08:37

『信仰をしなくても立派な人がいるのではないか』

  13年12月31日 16:05   閲覧件数 1,013
 まず「立派な人」とはどういう人を指すのでしょうか。

 一般に「立派な人」という場合は、社会的に指導的地位にある人、名誉のある人、財をなした人、学識豊かな人、福祉活動や救済事業に貢献する人、社会的な悪と闘う人などが挙げられます。

 さらに広くいえば、名誉や地位はなくても毎日を正直にまじめに努力しながら過ごしている人々も”立派な人”といえるのではないでしょうか。

 こうして見ると、”立派な人”といっても一定の基準があるわけではなく、他人を評価するときに主観的見地から用いる漠然とした言葉に過ぎないことがわかるでしょう。

 では信仰は立派な人間になるためにするのでしょうか。それとも立派な人間になることとは違うところに目的があるのでしょうか。

 結論からいえば、正しい信仰とは、成仏という人間にとって最高究極の境界に到達することを大目的として修行精進することであり、その仏道を修行することによって、一人ひとりが人間性を開発し、錬磨し、身に福徳を具えていきますので、その過程のなかでおのずと”立派な人間”が培われていくのです。日蓮大聖人は、
 「されば持たるゝ(たもたるる)法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(持妙法華問答抄・新編268)
と仰せられ、信ずる法が正しいゆえに人も立派になるのであると説かれています。
 

 ですから正しい信仰を持たずに、単に眼前の名誉や地位、あるいは財産、学歴などをもって、それで仏の御意にかなう人生になるわけではありませんし、そのような表面的な要件が具わっているからといっても真実の絶対的幸福が得られるわけではありません。

 大聖人は、賢人について、
 「賢人は八風と申して八つのかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)なり」(四条金吾殿御返事・新編1117)
と仰せです。財産(利)や名誉(誉)、地位(称)、悦楽(楽)などによって喜んだり、落胆したりすることは世の常ですが、これらは世間の一時的な八風であって、この八風に侵されない賢人になるためには、より高い理想と教え、すなわち心身に強い信仰を体して仏道精進を志す以外にないと教えられています。

 この八風に侵されない賢人こそ”立派な人”というべきでないでしょうか。そのためには生命の奥底から浄化し活力を与える正しい仏法を持つべきなのです。

 大聖人は、
 「地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を閣いて(さしおいて)三宝(さんぼう)を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利(みょうもんみょうり)の風はげしく、仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし」(新池御書・新編1457)
と戒められています。

(『正しい宗教と信仰』より転記)