17年8月18日 14:04

『信仰は意思の弱い人間のすることだ』

  13年12月30日 16:27   閲覧件数 653
 意思の強い人とは、一つの目的に向かって、種々の障害があろうとも、それを乗り越えていく努力ができる人のことをいい、目的に向かうことは同じでも、途中で挫折してしまったり、また一つのことに長続きしない、移り気な人が意思の弱い人といえると思います。

 しかし、目的の違いや環境の違いによって難易の度合いも異なりますから、いちがいに、あの人は意思の強い人、弱い人と決めつけるわけにはいきません。

 また、意思が強いと思っている人であっても、人の心というものは常に変化していくものです。周囲の環境の変化によって変わっていくのが、人間の心なのです。

 したがって、その変わりやすい自分の心を中心として、その心の変化のままに思い思いに行動していくならば、それは、ちょうど羅針盤のない船のように、どこへ行きつくのか見当もつきません。常に右往左往していなければなりません。

 日蓮大聖人は、
 「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(曽谷入道殿御返事・新編794)
と、自分の心をすべての依りどころの基盤とするのではなく、正しい教法を心の師として、弱い自分に打ち勝つべきであると教えています。

 なかには、何事に対しても消極的で、常に何かに頼っていこうとする人がたまたま宗教に救いを求める姿をとらえて、「信仰は意思の弱い人間のすることだ」という人もいるようです。

 しかし、たとえ意思が弱いといわれるような人であっても、真実の宗教である大聖人の教えによって種々の困難を克服していくならば、これほどすばらしい人間改革の道はありません。

 事実、意思の弱さや、病魔や、様々な宿業による困難を、妙法の信仰によって乗り越えた体験をもった人たちが、現在、社会のあらゆる分野で活躍し、大聖人の仏法によって、大きくその境界を開いています。

 このような現実社会のなかで人材として蘇生していく姿こそ偉大な仏法の力を証明するものであり、信仰は意思の弱い人間がすることだと決めつけるのは、とんでもない誤りです。

(『正しい宗教と信仰』より転記)