17年5月25日 00:33

『信仰は老人がするものではないのか』

  13年12月29日 16:37   閲覧件数 530
「信仰は年寄りがしていればよい」という意見には、信仰に対する無理解と老人に対する偏見が潜んでいるように思われます。

 正しい信仰が人生にもたらす作用はさまざまなものがあります。その中の主なものを挙げてみますと、

 ①正しい教えを信ずることによって、考え方や人生観が広く正しいものになる。
 ②日々の信仰修行によって身心ともに健全な人間として鍛錬される。
 ③精進心すなわちこつこつとたゆまぬ努力を積み重ねる心が培われる。
 ④敬虔な心・感謝の心・思いやりの心が養われる。
 ⑤日常生活が信仰の功徳力によって仏天に加護される。

などがあります。

 このように人生に大きな意義をもつ信仰が、若い人と無縁であるというのはまったく的はずれな暴論というべきです。

 むしろ、「鉄は熱いうちに鍛えよ」という言葉どおりに、人生の基礎となり土台となる若い時こそ、正しい宗教を信仰し修練を積むべきなのです。

 ビルを建てる場合でも地中深く打ち込まれた盤石な基礎があれば、その上に立派な高層建築を建てても微動だもしません。これと同じように、若い時に目先の欲得や表面的な楽しみに流されることなく、信仰を根本としてしっかりした人生観と人間性を養うことが将来の大きな力になるのです。

 また本人がいかにまじめな努力家でも、いつ不慮の災難にまき込まれるかわかりません。一瞬の事故によって一生を台なしにするような事件がいたるところで起きていることを考えると、やはり仏天の大きな力によって日々守られることも、若い人が充実した生活を築くための大切な要件といえましょう。

 たしかに低級思想や迷信に走る宗教、あるいは形骸化した既成宗教の姿に対して、若い人だけでなくすべての人々が失望し、むしろそれらを忌避しているというのが現実です。

 しかし真実の生きた宗教は、老若男女、人種などの差別なく、すべての人に生きる力を与え、何ものにも崩れない安穏にして自由な境界を確立させるところに、その目的があるのです。また、道を志すことに遅いということはありません。青年・壮年・熟年を問わず正法に帰依することは幸福の絶対条件ですが、健全な苗木が大木・名木に成長していくように、伸びゆく青年時代に信仰に励むならば、それだけ人生の大きな力となり、強固な礎となるのです。

 現在日蓮正宗には、数百万もの青年が自己の確立と社会平和のために、情熱をもって信心修行に励んでいます。

(『正しい宗教と信仰』より転記)