17年12月16日 01:00

『信仰はもうこりごりだ』

  13年12月29日 21:10   閲覧件数 662
 現在、日本には二十万以上の宗教があるといわれています。

 その中には、古い歴史と伝統を誇る宗教から、最近生まれた宗教まで、多種多様です。そして、歴史を誇る宗教は、その伝統と古めかしい教義を説き、また各種の新興宗教は、それぞれの人の耳目を惑わすような、小さな通力や利益を説いて、一人でも多くの人を引きつけようと懸命です。

 「信仰はもうこりごりだ」という人は、これらの宗教に一度ならず足を踏み入れ、そのつど、願いも叶わずむなしい思いを味わった人であろうと思います。

 宗教は人の心と生活の全体に影響を持つものですから、一歩まちがえて邪教にのめり込んだら、どんなに立派な志を立てても、その結果は逆になってしまうのです。

 しかも、邪な宗教に一度落ち込んだら、なかなかはい上がることができません。なによりも恐ろしいことは、悲惨なその姿に、本人自身がいまだに何も気付かず、不幸だと思ってもいないことです。

 このように、個人の理性をマヒさせるのが、邪教のもっとも恐ろしいところなのです。

 今も非常に多くの人々が、その麻薬のような利益に執着して、抜けられないでいるのですが、何とかしてそこから抜け出た人が、二度と宗教には足を踏み入れたくないと思うのは、当然でしょう。

 しかし、だからといって、真実の宗教も邪な宗教も、十把一からげにして、すべてを否定することは、あまりにも軽率に過ぎます。

 それは、あたかも一部の警察官の不祥事をもってすべての警察官がそうだと決めつけたり、何人かの悪徳医者がいたからといって、それですべての医者を悪徳呼ばわりし、医者を拒否する愚に似ています。

 日蓮大聖人は、
 「人路をつくる、路に迷ふ者あり、作る者の罪となるべしや」(撰時抄・新編八三五)

と仰せられています。過去にあなたが邪な宗教にとらわれ、欺かれてきた原因は、あなたに正法正義を選択する力がなかったからなのです。ですから邪教に惑わされた自らの不明を顧みて、真実の宗教と邪教とを識別する方途を知る必要があります。

 大聖人は、宗教の正邪浅深を知る物差として、
 「法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず。」(唱法華題目抄・新編二三三)

と教えられています。

 つまり、仏法の正邪は、耳目を惑わすような通力によって決めてはならない。あくまでも、人々を救済できる道理と働きと力を教え授ける法門によって決めなさい、と説かれています。

 さらに大聖人は、
 「日蓮仏法をこヽろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。」(三三藏祈雨事・新編八七四)

と説かれています。

 すなわち、正しい仏法を判定するためには、正しい救済の道理と、明確な仏の文証と、実際の功徳の現証に裏付けられていなければならないと説かれています。

 この三証(文証・理証・現証)によって裏付けられ、いかなる時代の人々の理性と常識にも充分対応し、真実に人を救う力のある宗教が、日蓮正宗として現実に存在するのですから、「もうこりごりだ」などと言って逃げていては、ほんとうの幸せをつかむことはできません。

(『正しい宗教と信仰』より転記)