17年6月27日 10:46

『信仰と名のつくものはなんであろうときらいだ』

  13年12月29日 22:16   閲覧件数 503
 私たちは、日常さまざまな判断をしながら生きています。善悪を考えて決断しなければならないときもありますし、損か得かを考えて行動したり、他人の評価を考慮して行動する場合もあります。

 幼児の頃は誰でも、善悪や他人の評価などにとらわれず、好きかきらいかという自分本位の感情で判断し、笑ったり泣いたりします。しかしその幼児も成長し、責任ある社会人になると、好き嫌いの感情による判断だけでなく、理性による判断、つまり物事の道理や善悪・利害などを考えて行動するようになります。人間誰しも好ききらいの感情は生まれながらに持っており、どんな人でも好きになれない食物や飲物は必ずあるでしょうし、一般に”医者嫌い”を自称する人も多いようです。しかし、医者がきらいだといっても、健康を損ねたり生命にかかわるケガをしたときは、身体を守るために医者にかからなければなりません。

 私たちの周囲には、好ききらいで判断してよいことと、その反対に、さきほどの医者ぎらいのたとえのように、理性で正邪・善悪・得失・用否などを決定しなければならないときがあるわけです。

 これをとり違えて用いたり、すべて好ききらいの感情で判断することは、きわめて幼稚な行動であり、危険なことでもあります。

 もし、信仰が趣味や道楽あるいは一種の友好活動にすぎないものならば、好きかきらいかで判断し、きらいな人は近づかなければよいわけです。しかし、正しい宗教とは、苦悩に直面している人に対してはもちろんのこと、それ以外の、特別の悩みがないという人に対しても、正しい生命観・人生観に立脚した真実の幸福を獲得する道を説いています。この正しい宗教を信仰することによって、私たちは個々の生命力をより生き生きと蘇生させ、人生を力強く充実したものに変えることができるのです。

 人生を木に譬えるならば、正しい信仰は根幹に当たるといえるでしょう。なぜなら正しい信仰が、人生の根源の力になるからです。 ですから、信仰を単に好ききらいで決めることは、自分の人生の根本を感情で決定することであり、賢明な方法ではありません。

 また私たちの人生は、いつ、どこで幕を閉じるかわかりません。また、自分の真実の幸福は、家族や周囲の人々へ、そして社会の幸せにも通じていくのです。今日一日を正しい信仰によって生活することは、あたかも羅針盤を備えた船のように、幸福という目標に向かって正しく前進することになるのです。

 どうか好ききらいにとらわれず、真実の仏法に耳を傾けて信仰が必要なことを知ってください。

 素直な心で仏の教えに触れるとき、あなたは人生でもっとも大切な宝を、今まで忘れていたことを痛感するでしょう。

(『正しい宗教と信仰』より転記)